東大生5人が強制わいせつで逮捕されたようだ。実際のところ何があったかあるいはなかったかは分からない。
ここで、勉強ができてもこれではだめだ、という意見の人もいるかもしれない。では、4つのパターンを考えよう。
勉強ができて強制わいせつをしない人、
勉強ができて強制わいせつをする人、
勉強ができなくて強制わいせつをしない人、
勉強ができなくて強制わいせつをする人、
以上4パターン。
さて、
勉強ができてもできなくても、強制わいせつをする人は問題である、
強制わいせつをしようがしまいが、勉強ができることは一つの特技である、
勉強ができても強制わいせつをする人が問題なら、では勉強ができなくて強制わいせつをする人は問題ではないのかという疑問がある、「勉強ができても」という点を強調するのは勉強ができる人への単なる嫌がらせではないかという疑問がある、
一般論で勉強ができるのが悪いのなら、勉強ができるの意味を高校から大学へ進学の際の大学入試ができたという意味とするなら(東大生5人逮捕の5人がどんな形で入学したか知りません)、高校の勉強なんてしなくて良いことになり、高校の受験教科の授業は全て取りやめるべきということになるかもしれない、もっと言えば、高校を廃止すべきということになるかもしれない、
このような考察ができる。
さて、勉強ができてもというのをスポーツや芸術に置き換えることもできるであろう。
別の観点から。
東京大学はどうするのだろうか。退学処分にするのだろうか。
一般論で、大学なんてただのビジネスかもしれない。大学も、その従業員も、学生がどうなろうが、奨学金という教育ローン借り、将来仮に借金苦で自殺しても知ったことではないのかもしれない。やめずに借金してでも客になってくれ、社会問題を起こした学生は退学処分にして大学はきちんとしていると取り繕う、自らの社会問題を起こさないように教育するという指導力のなさは大きくは問題にならずにすむかもしれない、そのくせその学校外のことまで話題で介入する無責任評論家教員、学生は客として丁寧に扱われず教員の自己満足の道具で金を払わせて契約が切れたら後(卒業またはやめた後)は知らない都合が悪いと処分し退学処分もある、ということかもしれない。
なので東京大学が本件に対してどんな対応をとっても、大学のために従業員のために対応しているだけで、実際に強制わいせつがあろうがなかろうが、加害者にも被害者にもどちらのためにも対応しているとは思わないし、加害者や被害者のために活動しているように見えても、我々大学は大学従業員は良い所だ良い人だという宣伝と思っておきます。
東京大学や東京大学従業員(経営者も含む)が実際今書いたようなものではないのかもしれないしあたっているのかもしれない。それは分からない。しかし、大学や大学従業員というものがそういうものだと思える世の中だということである。
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