学校は人を統制する機関である。あなたの考え方、何が優れているか否かの判断、常識、こういったものは学校で植えつけられている可能性がある。
学校で何かを教えるということは何かを教えないということである。
ある考え方で指導すれば、その価値観を植えるつけようとすることになるであろう。
そうやって、歴史とか科学とかの常識という、実際そうではないかもしれないし別の解釈もあるかもしれないある特定のものが植えつけられていくわけである。
優れた人、優れた芸術、こんなのは個人がどう思うかの問題だが、こんな領域だってある特定の価値観が当たり前のこととして植えつけられうるわけである。
確かに、マスコミという思考統制手段もあるが、テレビや新聞を見ない人もいるかもしれない。美術館に展示しているものが優れているかどうかは自分が判断すればよいわけで、それを優れたものと無批判にみなすよう誘導するところが思考統制手段であるわけだが、美術館に行かない人もいるかもしれない。
しかし、学校は義務教育として、多数の思考統制を行うのに好都合の場所である。社会統制システム、支配者や権力者の作るシステムを肯定する思考を植え付けるのに好都合の場所である。学校でテレビや新聞のようなマスコミを紹介しそれを使うとよいものとして紹介したり、美術館のようなものを紹介したり、優れた人や優れた機関や賞のようなものは何が優れているかは自分で判断すればよいのだが無批判にそれらを優れたものとみなす思考を植え付けたりできうる。教科だけでなく、遠足のような行事だって存在する。大学だって、教員が権力者側に立つ方が有利な人生を送れるように設計でき、教員は単位を認定する権力を持っていて、実は大学には学問の自由なんてものは存在せず、大学教員はもっと背後にある力によって操られているわけである。
学校なんてすばらしいものではない、統制機関であり、世の中の一現象としての観察対象にすぎない。
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