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日本世界研究ブログ (今世紀をダッシュ)

様々な内容。医療、ニュースに関連して、歴史、芸術、自然災害、経済など。  このサイトはリンクフリーです。 ブログ名を「ダッシュ ー世界を分析するー」から変更しました。

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良いことを言う人にだまされないように

良いことを言われてだまされないように注意したいものだ。

 優等生的なこと、立派なこと、常識から考えて良いことを言われた時、その人は裏で悪いことをしていたり、実は悪い内容なのに良いように言っていたり、出世のために良い人に見せるために良いことを言っていたり、そういう場合かもしれないということである。

 店屋があなたのためを思ってといっても、本当にあなたのためなのか、売り上げを増やすためなのか、本当にあなたのためを思ってなら、良いこと悪いことを全て説明して質問に誠実に答え買う買わないを選んでもらえばよく、本当にあなたのためを思って言っているのかどうかということがある。

 アットホームな組織・団体といってもどんなのをアットホームといっているか、グローバルといってもどんなのをグローバルといっているか、すばらしいとか分かりやすいといってもどんなのをいっているのか、そういう問題があり、ではアットホームでないとか世界を無視したとかくだらないとか分かりにくいというように自分たちのことや商品をいうことがあるのかどうかという問題がある。

 何をもって良いなら良いと言っているのか実際の内容をよく調べないと、良いとかアットホームとかあなたのためを思ってとか、感性でそう言えるようなことではなく事実を見るべきであろう。

 何かに名前をつけるときでも、名前からイメージしたこととは逆のことが実態でないかどうかについても考えるべきであろう。
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学校はすごい所という幻想

学校ってそんなにすごい所であろうか。個性を伸ばす所か強制する所か、そういう議論もありうるであろう。しかし、その観点からの議論をおいておいても、教えている内容がその指導でできるようになっているのかという問題があるであろう。

 学校は卒業資格や単位を与える。そして、それが社会で何かする時に必要になる場合があるであろう。資格取得の際にあるコースの学校を卒業していることが必要になったり、学校の卒業資格か単位(正確に何かは自分で確認してください)があれば資格取得が楽になる場合があるであろう。内申点が進学に使われる場合もあるであろう。就職にだって学校がする評価が関係する場合があるかもしれない。

 こうやって、本当に参加する価値があるわけではないと仮に思ったとしても、システム上学校が権威を持つようになっているわけである。たとえ、学校の提供するものが価値がないと判断されても、社会システムから学校が権威を持つわけである。

 そして、学校も含めて、権力者・支配者が描く社会ができることになるであろう。学校は社会の支配システムの一つにすぎない。

 学校にしろ、その他にしろ、すごいと思っているからそう思うだけで、そう思わない人はそう思わない。学校はすごいという評価は幻想である。

裁判所の判決が全てではない

裁判所の判決が全てではない。確かに刑事裁判で判決が確定すれば、その判決に従って物事が行われるであろう。しかし、例えば、裁判所が無実だということにたどりつけず有罪にしている可能性もある。また、刑事裁判や民事訴訟でどのような判決になろうが、ある人がその裁判で取り扱っていた内容について何が真実であると心の中で思うかは、判決の通り心の中で思うとは限らないであろう。裁判で損害賠償請求に対してある会社側が勝ったからといって、その会社は悪いと思うから買わないという人もいるかもしれないし、判決がどうであれある人がその会社の商品を買うか買わないかは自由である場合には基本的に自由であろう。

 裁判所といっても、支配者側・権力者側のものであろう。裁判所の判決には力があるであろう。そして、裁判所の判決が社会における有力なものの一つになるであろう。

 歴史だって学校が教えるものは支配者側・権力者側のものかもしれない。

 しかし、裁判所の判決にしろ歴史にしろ、支配者側・権力者側のものが社会で影響力を持ちうるわけであろう。

 ただ、裁判所の判決が全てではないという部分があるであろう。歴史だって学校が教えるものとは別の歴史を述べることができうるであろう。

学校は人を統制する機関である

学校は人を統制する機関である。あなたの考え方、何が優れているか否かの判断、常識、こういったものは学校で植えつけられている可能性がある。

 学校で何かを教えるということは何かを教えないということである。
 ある考え方で指導すれば、その価値観を植えるつけようとすることになるであろう。

 そうやって、歴史とか科学とかの常識という、実際そうではないかもしれないし別の解釈もあるかもしれないある特定のものが植えつけられていくわけである。
 優れた人、優れた芸術、こんなのは個人がどう思うかの問題だが、こんな領域だってある特定の価値観が当たり前のこととして植えつけられうるわけである。

 確かに、マスコミという思考統制手段もあるが、テレビや新聞を見ない人もいるかもしれない。美術館に展示しているものが優れているかどうかは自分が判断すればよいわけで、それを優れたものと無批判にみなすよう誘導するところが思考統制手段であるわけだが、美術館に行かない人もいるかもしれない。

 しかし、学校は義務教育として、多数の思考統制を行うのに好都合の場所である。社会統制システム、支配者や権力者の作るシステムを肯定する思考を植え付けるのに好都合の場所である。学校でテレビや新聞のようなマスコミを紹介しそれを使うとよいものとして紹介したり、美術館のようなものを紹介したり、優れた人や優れた機関や賞のようなものは何が優れているかは自分で判断すればよいのだが無批判にそれらを優れたものとみなす思考を植え付けたりできうる。教科だけでなく、遠足のような行事だって存在する。大学だって、教員が権力者側に立つ方が有利な人生を送れるように設計でき、教員は単位を認定する権力を持っていて、実は大学には学問の自由なんてものは存在せず、大学教員はもっと背後にある力によって操られているわけである。

 学校なんてすばらしいものではない、統制機関であり、世の中の一現象としての観察対象にすぎない。

現代の書物統制

歴史で権力者が書物を統制したという話がでてくるであろう。現代にそれはないか。似たようなことならあるであろう。

 まず、昔の歴史資料で残っているものを誰でも見ることができるかという問題がある。その時点で何でも自由に見ることができて判断できるということから外れる。

 次に、インターネットがあるので完全に世の中からなくすことができなくても、例えば学校で何とか時代に何々という優れた文学作品があるという授業、とりあげられている作品が本当に他にもたくさん作品がある中でそれが特別にとりあげるほど優れているかどうか教えている方もそれを判断して教えている人なんてどれだけいるのか疑問であるが、そういうふうに教えるということになっているのであろう、これなんて、書物の統制に近い話になるであろう。学校とかマスコミとかを使ってこの書物が特別にとりあげるほど優れているということにして、価値を統制することにより書物統制に近いことがされるわけである。

 賞だって、そんなの選考者決めたものを優れていると価値を統制して、この書物が特別にとりあげるほど優れているということにしていることになるであろう。私が選ぶ経済書賞でも私が選ぶ文学賞でも自分で作って、選考基準を自分で作り、自分で選んで結果を家の壁にはっておけば、どこかの誰かが選んだものとは別のものになるかもしれない。

 書物統制に従った思考をすると、誰かの価値観に自分が支配されることになるであろう。

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